2005~08年にタンザニアで仕事した後、2010~12年に計1年、調査のためにタンザニアに滞在しました。2014年10月からダルエスサラーム大学政治行政学部で教えるためにタンザニアに戻ってきました。darはダルエスサラーム、journalは日記という意味です。イギリス留学についてはブライトン・ジャーナル(brightonjournal.blogspot.com)をご覧ください。

Wednesday, May 06, 2015

障害のある学生

ダル大で担当した2年生の『公共政策入門』に全盲の学生がいました。彼女は初回の授業の後に私のところにきて、障害者を支援する部署で、教科書を「ブレイル」にしてほしいと言いました。私は「ブレイル」の意味がわかりませんでしたが、おそらく目が見えないことに関する用語だろうと思って分かったと言いました。あとで、「ブレイル(braille)」は点字という意味だとわかりました。

ダル大で障害のある学生はどんなふうに勉強しているのだろう、大学はどのような支援を行っているのだろうと思い、早速、教えてもらった部署に行ってみました。教育学部の中にある特別教育部(Special Education Unit)というところで、大学の図書館と同じ建物の一階にありました。その日は職員は一人しかいませんでしたが、ダル大が目の見えない学生や耳の聞こえない学生にどのような支援を行っているかを説明してもらい、点字を印刷するための機械も見せてもらいました。その職員は手話の専門家で、耳の聞こえない学生と一緒に授業に出て、手話で内容を説明することもあるそうです。昨年その方の手話で学んだ学生が初めて大学を卒業して(通常は卒業まで3年のところ5年かかったそうです)、今は高校の先生をしているということでした。また、目の見えない学生のためにどんなことに気をつけたらいいかというアドバイスももらいました。

ダル大では障害のある学生には、勉強を手伝うために同級生のアシスタントを付けます。耳の聞こえない学生には常に手話のできる職員がつくわけではなく、アシスタントを務める同級生がとったノートを見ながら勉強することもあるようです。実際、私の3年生の担当科目に耳の聞こえない学生がいて、同級生がアシスタントを務めていました。その後何度か特別教育部に行きましたが、点字の専門家など他の職員にも会いました。この部署、目の見えない学生がよく立ち寄っておしゃべりをしていて、とてもアットホームな雰囲気なのでした。

私の担当科目にいる全盲の学生はアシスタント(彼女の場合はアシスタントはダル大の学生ではありませんでした)と一緒に授業に来ることもあれば、一人でくることも多かったですが、いずれの場合も彼女は授業を聞くだけでノートは全くとっていませんでした。後日、この科目で使っている教科書を点字にすることは技術的に難しいことがわかり、教科書をアシスタントに読んでもらうという形で勉強していました。ダル大では、中間試験やセミナーでの発表や議論への参加、リサーチエッセイなどのコースの課題(Course Assignment)で4割以上の成績をとらないと、期末試験を受けることができず、その科目は不合格となってしまいます。私は、彼女は毎回ちゃんと授業に出ていて、セミナーでの発表や議論にも積極的に参加していると聞いていたので、頑張ってこの科目の単位をとってほしいと思い、エッセイのアドバイスをしたり励ましたりしながら様子を見守っていました。最後にはコースの課題をクリアし、期末試験も終えて、無事単位をとることができました。

初めて特別教育部に行った日に、「これまで障害のある学生が大学でどんなふうに学んでいるかほとんど考えたことがなかったことに気づきました」と職員に言ったら、「今が知る良い機会ですよ」と言われたことを覚えています。担当科目の目の見えない学生を通じて、障害のある学生がダル大でどのように学んでいるのかを少しでも知ることができて良かったです。彼女にはあと1年少しの勉強を頑張って、無事に大学を卒業してほしいです。

Monday, April 06, 2015

入国管理局

ご無沙汰しております。前回書いてから4か月も経ってしまいました。

2月にダルエスサラーム大学での仕事を終えて、先月帰国しました。 タンザニア滞在中は、平日の午前中に授業やセミナーがあり、午後に授業の準備をし、週末に雑誌投稿用の論文の執筆と就職活動もしていたため、他のことをする時間がなかなかとれず、ブログを書くこともできませんでした。これから少しだけ書きたいと思います。

11月から12月にかけて、授業の合間を縫って、滞在許可を取得するために何度か入国管理局に行きました。入国管理局は街の南のはずれにあり、ダル大からは道が少し混んでいることもあり、ダラダラを乗り継いで片道約2時間、バジャジ(Bajaji、3輪のバイクタクシー)でも片道1時間半くらいかかります。滞在許可を取得するには最低3回入国管理局に行かなければいけませんが、私は5回行きました。入国管理局は午後2時に閉まるので、授業のあとに急いで行きましたが、滞在許可料の支払い予定の日に行ってもまだ手続きが終わっていないからまた来てと言われたり、1時55分に着いたら支払い窓口がすでに閉まっていたりということがあったためです。

支払い窓口が閉まっていた時は、受付にいた若い職員をつかまえて「2時前に着いたのに閉まっているのはおかしい。毎日大学の授業があって、これ以上早くここに来ることができない。どうにかしてほしい。」と散々文句を言いました。進展はありませんでしたが、たまたまダル大政治学部の卒業生だったその職員は親切に対応してくれました。最終的に滞在許可が下りた頃には文句を言った職員とは仲良くなり、お礼を伝えました。

入国管理局での用事をすませた後に、何度かすぐ近くのローカル食堂でお昼ご飯を食べました。ある日、その食堂にいた若い2人のシスターに声をかけられて一緒にお昼ご飯を食べました。一人はエジプト人、もう一人はカメルーン人。アルゼンチンで設立されたカトリック教会がタンザニア北部のシニャンガ州で運営している幼稚園で働いていて、滞在許可の申請のためにダルに来たとのこと。話し始めて気づいたのは、二人がスペイン語で話しているということでした。エジプト人のシスターはアラビア語とスペイン語とスワヒリ語、カメルーン人のシスターはフランス語と英語(カメルーンにはフランス語圏地域と英語圏地域があります)とスペイン語を話すとのことで、私はエジプト人のシスターとスワヒリ語で、カメルーン人のシスターとは英語で話しました。3人同時に話を理解することができませんでしたが、タンザニアでの教会の活動などについて話を聞き、お互いタンザニアでの活動をがんばりましょうと励ましあったことが印象に残っています。

入国管理局に行くのは遠くて面倒だったのですが、今は職員とのおしゃべり、シスターたちとの出会いなど、いいことばかり覚えています。だからまたタンザニアに行きたくなるのですね。

Saturday, November 29, 2014

授業

大学の授業が始まって以来、毎日授業やセミナーがあり、忙しい毎日を送っています。

ダルエスサラーム大学では、政治学を含む社会科学系の学部は3年間のプログラムとなっており、私は2年生の『公共政策入門(Introduction to Public Policy)』、3年生の『開発の理論と政治(Theory and Politics of Development)』、それから、修士課程の『公共政策(Public Policy)』を他の先生と共同で担当しています。

公共政策に関する2科目は、長年ダル大で教鞭をとられ、海外の国際機関にも勤められていた大ベテランのM先生と共同で担当しています。M先生、ダル大を卒業して大学に採用された最初のタンザニア人だそうで、当時の話を聞くのが面白いです。

3年生の開発に関する科目は現地調査中にもお世話になった友人のJ先生と一緒に教える予定・・だったのですが、学期が始まって数週間経ったところで、1年生の必修科目を担当することになっていた先生が音信不通(!)となったため、Jが急遽その科目を担当することになり、別のP先生と担当することになりました。Pは修士課程を終えたばかりの若手の先生で、いろいろ丁寧に教えてくれて助かっています。

今学期はもともと10月初旬に始まる予定でしたが、2週間遅れて始まりました。政府の授業料のローンの支払いが遅れたのが理由のようです。さらに、最初の週は2・3年生は授業料の支払いや登録手続きがあり、ほとんどの学生が授業に出ずに、翌週から徐々に出席するようになりました。毎年最初の週には学生は出てこないのが通例なのだそうです。各学年、登録している学生は200人くらいと聞きましたが、講義に出席しているのは100人くらいだと思います。またドイツの大学からの交換留学生が数名、早稲田大学からの留学生が一人います。ダル大の授業に日本人の教員と学生がいるというのも偶然で面白いですね。

学部生のプログラムは、各科目50分間の講義が週2回と、50分間のセミナー週1回で構成されています。講義は大教室で行われ、セミナーは20~40人ずつ、計7つくらいのセミナーに分かれて、グループ発表・ディスカッションを行います。学生は5~6科目履修していて、全ての科目にセミナーがあるので、かなり忙しそうなスケジュールです。

学期が始まって1か月半が経ち、私も学生もお互いに慣れてきました。大教室にはマイクが置いてありますが、電池切れで使えないこともあり、大声を出さないといけないのが大変ですが、それも何とか慣れてきました。タンザニアのトップの大学だけあって、やる気のある学生や優秀な学生もいるので、学生をinspireするような授業やセミナーをやりたいと思いつつ、11月後半は授業とセミナーをこなしていくので精一杯な感じでした。今月は私の担当する授業が減るので、もう少し余裕が出るといいなと思っています。

Saturday, October 25, 2014

ダル到着

ダルエスサラームについて3週間が経ちました。生活のセットアップが終わり、大学の授業の準備をしながら充実した毎日を送っています。 今回はミコチェニという地域の小さい家をお借りしています。大きな家の敷地内にあり、もとは住み込みの使用人の家だったのではないかと思いますが、改装されていて、キッチン、バスルーム、エアコンもついていて、日本のワンルームマンションのようで快適です。

ダルエスサラーム大学でもオフィスの机をもらいました。政治行政学部、経済学部、社会学部が入っている建物の最上階の9階にあるオフィスで、窓からキャンパスの緑がよく見えて良い部屋です。ただ、9階まで階段を上らないといけません。エレベーターは修理中です。実はまだエレベーターが動いていた頃にひとりで乗ったら、途中で止まってしまいました。すぐに同じオフィスの同僚に電話して助けてもらいましたが、エレベーターの故障は怖いので、それ以来、階段を上り下りしています(今エレベーターは修理中なので、どちらにしても使えませんが)。

最初の日、先生たちが普段どこでお昼ご飯を食べているのかわからず、学生食堂に行ってみました。この食堂、外からよく見てはいましたが、中に入ったのは初めてです。大きなホールに長テーブルがたくさん並んでいて、100円くらいで安くて量が多くて美味しかったのですが、後から先生たちや大学院生はヒル・パーク(Hill Park)と呼ばれる食堂で食べていると知りました。「学生食堂なんて行かないよ」と言う先生たち。学生食堂よりきれいで、一食200~300円くらいです。私も最近は毎日ヒル・パークに行って、他の先生たちとのおしゃべりを楽しんでいます。

Monday, May 07, 2012

ダル大での発表

前回の投稿で触れましたが、2月末のダルエスサラーム大学での発表について。

タンザニアでの調査中、ダル大の政治行政学部の先生方には、調査許可の申請、人の紹介、研究トピックに関するアドバイスなど、最初から最後までずっとお世話になっていたのですが、タンザニアを出る前にやりたかったのは、私の調査について発表して幅広くフィードバックをもらうことでした。そこには2つの意味がありました。ひとつは、タンザニア人の政治学者が私の研究をどう見るのか知ること。国内政治を研究対象としていることもあり、外国人リサーチャーとして、現地の専門家たちの反応を見ることは重要なのです。もうひとつの意味は、データの出所であるタンザニアに調査結果の共有という形で最低限のお返しするということ。

発表には、政治学部長、政治学部と開発学研究所の先生方、大学院生など約20人が来てくださいました。パワーポイントを使って1時間近くかけて発表し、そのあと様々な質問やコメントをいただきました。データをどのように分析し、解釈するかという点についてのコメントもあり、学術研究は、国が違っても、同じような用語を使って、同じように考えるところが面白いなと思いました。他に、タンザニア人だからこそ関心のあるポイントもわかって、とても有意義な経験となりました。

この発表を通じて、ダル大の政治学部とはさらに近くなりました。次の研究プロジェクトを計画して、またダル大に行く日を楽しみにしています(その前に今の論文を書き終えないといけないですが)。それまでは、今私と同じように博士課程で研究している政治学部の友人たちに情報共有するなどして、連絡をとっていきたいと思います。

次はBrighton Journalの方に、先週金曜に発表されたタンザニアの内閣改造について書きたいと思います。熱いうちに早く書かなくては・・。

Thursday, March 22, 2012

イギリスへ

ドドマで最後に書いてから時間が経ってしまいましたが、タンザニアでの2回目の調査を終えて、13日にイギリスのブライトンに戻ってきました。1回目の調査のあとと同じように、これからはブライトン・ジャーナルに書きつつ、タンザニア滞在中のことについても、さかのぼってダル・ジャーナルに書きたいと思います。

2月末にダルエスサラーム大学で研究発表する機会をいただき、国会が終わったあとも1週間ドドマに残って発表の準備をしていました。ダル大の発表(これについてはまた今度書きます)のあと、いろいろな方にお会いしているうちに、あっという間に出発の日が来ました。前日は、朝から自宅のあるキノンドニ地区は停電でした。結局、その日は復旧せずに、翌朝家を出るときも電気なしのまま。夜には懐中電灯を照らしながら最後のパッキングをしました。

出発前日は午前中、昨年サセックス大学でスワヒリ語を習っていた友人Hに会いに彼のオフィスへ。前から一度オフィス訪問したいと言っていたので、最後に挨拶できてよかったです。その後近くのNGOの図書館まで送ってもらい、図書館のインターネットで飛行機のオンラインチェックインを済ませて、図書館の司書とNGOの職員に挨拶して、おみやげを買いにムササニ半島にあるスリップウェイに行きました。

スリップウェイでスワヒリ語を教えているママ(ホストマザーはスワヒリ語の先生なので)に会い、偶然、以前大使館に勤めていた頃にスワヒリ語を習っていた先生Bに3年半ぶりに再会しました。タンザニアに来ていると伝えていなかったのですが、私のことを覚えていてくれました。Bは私の最初のスワヒリ語の先生で、いつも「Safi(良いという意味), Machiko!」と言って励ましてもらったことを思い出します。

お昼ごはん(最後のウガリ)を家で食べて、午後に議員さんにご挨拶しに行きました。夜には自宅に電気がないので、ババ(お父さん)、ママ、姪のUと私、全員ベランダに出て、タンザニア電力供給公社(TANESCO)が家の前の電線を修理するのを見つつ、おしゃべり。夜にホストシスターの家族と電話で話してから、就寝。夜中1時半頃、以前インタビューをお願いしていた議員さんから携帯にテキストメッセージがきました。これから南アに行くけれど来週にはタンザニアに戻るとのこと。多忙な議員さんたち、たまに真夜中に返事を送ってきます。来週イギリスから連絡しますと返信。

翌朝5時に起きて、懐中電灯をつけて支度を始めたら、別の議員さんから電話がきました。タンザニアを発つ日を伝えていたのですが、飛行機の時間から逆算したのか、早朝のこの絶妙なタイミングで電話してくるところがさすが政治家だなぁと思いました。

飛行機が発つ直前に、最後の携帯のメッセージをホストファミリーに書いていたら、タンザニアで過ごしたいろいろな人との時間が思い出されて、涙が出てきました。フライト・アテンダントに驚かれました。1年前のサウザンサン・ホテルのレストランといい、回りの人たちに申し訳ないのですが、まぁ旅の恥は何とかというのでいいことにしましょう。。

ホストファミリーのお家では、ババとママ、それからママの姪のダダ(お姉さんという意味)たちに本当にお世話になりました。もともと家で家事手伝いをしていたママの姪Rが、彼女の妹のUを連れて家に来たとき、台所で料理しながら「この子はMachikoといって、ママの最後の子どもなのよ」と冗談でもなく普通に紹介して、クールなUも何も言わずに納得していた日を思い出します。そのあと家に残ったUには、毎日ご飯を作ってもらったり、お風呂のお湯を沸かしてもらったりとお世話になりました。週末一緒に近くのビーチに散歩に行ったこともいい思い出です。

1年間タンザニアの人たちと一緒に時間を過ごしたことで、タンザニアは私の一部になったような気がします。私を受け入れてくれたタンザニアの人たちに心から感謝したいと思います。Ahsante sana!

写真は飛行機から撮ったキリマンジャロです。

Tuesday, February 07, 2012

ドドマ

先月末から首都ドドマの国会に来ています。ドドマに来るのは今回で5回目です。先週、重要人物へのインタビューをして、タンザニアでのデータ収集も大体終わったかなと感じています。国会はあと3日ですが、PhDの調査で国会に来るのは今回が最後なので、無理に忙しい議員のアポをとりつけるよりも、国会自体を満喫したいと思っています。まだ国会では重要議題が残っているので、その動向もフォローしたいですし。

これまでにインタビューした議員の数は多くないのですが、それ以外に知り合いになった議員さんや国会職員もいるので、国会の敷地内で声をかけられることが多くなりました。昨日は、国会の食堂で会った若い男性に、「Machiko、僕のこと覚えてる?」と言われても覚えておらず、「えっと確か国会事務局(隣の建物)で会いましたよね」と適当に返事すると、「いや、この食堂で働いているんだよ」という返事。私、食堂のお兄ちゃんに自己紹介したかな。。

今日は国会の食堂で、ある議員にインタビューしたのですが、どうやら人が集まりやすいテーブルにいたようで、そのあと知っている議員さんたちが次から次へと私のテーブルに来ました。議員が一人座ると、その議員と話すために別の議員が来て、また別の議員が来て・・という感じで、入れ替わりも早いのですが、気づけば私は3時間近くその席に座っておしゃべりしていました。議員さんと話すのも、議員同士のやりとりを聞くのも面白いです(スワヒリ語がちょっとつらいですが)。これももう少しで終わってしまうと思うと寂しいのですが。