2005~08年にタンザニアで仕事した後、2010~12年に計1年、調査のためにタンザニアに滞在しました。2014年10月からダルエスサラーム大学政治行政学部で教えるためにタンザニアに戻ってきました。darはダルエスサラーム、journalは日記という意味です。イギリス留学についてはブライトン・ジャーナル(brightonjournal.blogspot.com)をご覧ください。

Thursday, March 22, 2012

イギリスへ

ドドマで最後に書いてから時間が経ってしまいましたが、タンザニアでの2回目の調査を終えて、13日にイギリスのブライトンに戻ってきました。1回目の調査のあとと同じように、これからはブライトン・ジャーナルに書きつつ、タンザニア滞在中のことについても、さかのぼってダル・ジャーナルに書きたいと思います。

2月末にダルエスサラーム大学で研究発表する機会をいただき、国会が終わったあとも1週間ドドマに残って発表の準備をしていました。ダル大の発表(これについてはまた今度書きます)のあと、いろいろな方にお会いしているうちに、あっという間に出発の日が来ました。前日は、朝から自宅のあるキノンドニ地区は停電でした。結局、その日は復旧せずに、翌朝家を出るときも電気なしのまま。夜には懐中電灯を照らしながら最後のパッキングをしました。

出発前日は午前中、昨年サセックス大学でスワヒリ語を習っていた友人Hに会いに彼のオフィスへ。前から一度オフィス訪問したいと言っていたので、最後に挨拶できてよかったです。その後近くのNGOの図書館まで送ってもらい、図書館のインターネットで飛行機のオンラインチェックインを済ませて、図書館の司書とNGOの職員に挨拶して、おみやげを買いにムササニ半島にあるスリップウェイに行きました。

スリップウェイでスワヒリ語を教えているママ(ホストマザーはスワヒリ語の先生なので)に会い、偶然、以前大使館に勤めていた頃にスワヒリ語を習っていた先生Bに3年半ぶりに再会しました。タンザニアに来ていると伝えていなかったのですが、私のことを覚えていてくれました。Bは私の最初のスワヒリ語の先生で、いつも「Safi(良いという意味), Machiko!」と言って励ましてもらったことを思い出します。

お昼ごはん(最後のウガリ)を家で食べて、午後に議員さんにご挨拶しに行きました。夜には自宅に電気がないので、ババ(お父さん)、ママ、姪のUと私、全員ベランダに出て、タンザニア電力供給公社(TANESCO)が家の前の電線を修理するのを見つつ、おしゃべり。夜にホストシスターの家族と電話で話してから、就寝。夜中1時半頃、以前インタビューをお願いしていた議員さんから携帯にテキストメッセージがきました。これから南アに行くけれど来週にはタンザニアに戻るとのこと。多忙な議員さんたち、たまに真夜中に返事を送ってきます。来週イギリスから連絡しますと返信。

翌朝5時に起きて、懐中電灯をつけて支度を始めたら、別の議員さんから電話がきました。タンザニアを発つ日を伝えていたのですが、飛行機の時間から逆算したのか、早朝のこの絶妙なタイミングで電話してくるところがさすが政治家だなぁと思いました。

飛行機が発つ直前に、最後の携帯のメッセージをホストファミリーに書いていたら、タンザニアで過ごしたいろいろな人との時間が思い出されて、涙が出てきました。フライト・アテンダントに驚かれました。1年前のサウザンサン・ホテルのレストランといい、回りの人たちに申し訳ないのですが、まぁ旅の恥は何とかというのでいいことにしましょう。。

ホストファミリーのお家では、ババとママ、それからママの姪のダダ(お姉さんという意味)たちに本当にお世話になりました。もともと家で家事手伝いをしていたママの姪Rが、彼女の妹のUを連れて家に来たとき、台所で料理しながら「この子はMachikoといって、ママの最後の子どもなのよ」と冗談でもなく普通に紹介して、クールなUも何も言わずに納得していた日を思い出します。そのあと家に残ったUには、毎日ご飯を作ってもらったり、お風呂のお湯を沸かしてもらったりとお世話になりました。週末一緒に近くのビーチに散歩に行ったこともいい思い出です。

1年間タンザニアの人たちと一緒に時間を過ごしたことで、タンザニアは私の一部になったような気がします。私を受け入れてくれたタンザニアの人たちに心から感謝したいと思います。Ahsante sana!

写真は飛行機から撮ったキリマンジャロです。

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