2005~08年にタンザニアで仕事した後、2010~12年に計1年、調査のためにタンザニアに滞在しました。2014年10月からダルエスサラーム大学政治行政学部で教えるためにタンザニアに戻ってきました。darはダルエスサラーム、journalは日記という意味です。イギリス留学についてはブライトン・ジャーナル(brightonjournal.blogspot.com)をご覧ください。

Thursday, August 31, 2006

Jの家①

以前、Jに5万シル貸した話を書きましたが、まだお金は返してもらっていません。その代わりなのか、家に招待され、2度Jの家をお邪魔しました。

Jの家はダル北部のムベジ・ジュー(Mbezi Juu)という丘の上にあります。庭が小さな畑になっていて、台所とトイレが外にある、タンザニアの田舎にあるような家です。

Jは奥さん、子ども3人と、メイドさんと一緒に住んでいます。Jと奥さんのNは英語を話しますが、子どもたちとメイドさんは話しません。メイドさんは南部リンディ州出身の10代の女の子で、親戚ではないそうです。2002年にジンバブエに滞在した際にお邪魔したジンバブエ人の友人の家にもメイドさんがいました。日本ではメイドさんというと、お金持ちの家にいるイメージですが、アフリカでは一般家庭にもいるのですね。

1回目にJの家に行ったときには、ピラウ(ピラフ)とカチュンバリ(サラダ)をいただきました。Jを含むタンザニア人の多くは普段はウガリ(タンザニアの主食)を食べますが、お米もピラウなどにして時々食べます。ただ、ピラウはお客さんがきたときや、お祝いなどのときに作るもののようです。ご飯をいただきながら、食事の話になり、Nからウガリの作り方を教えてもらうことになり、1ヶ月後にもう一度Jの家に行くことになりました。

タンザニア人はお客さんを家に呼んだら、暖かくもてなすと聞いてはいましたが、Jの家族もそうで、帰りにはお土産にラベンダーのポプリをいただきました。

写真はいずれもJの家の近く、左上は教会の看板です。

Sunday, August 27, 2006

南半球に位置するタンザニアは、6~8月頃が1年の中で最も涼しく、過ごしやすい時期ですが、8月後半になり、日中だんだん暑くなってきました。特に私の車はクーラーが壊れているので暑い・・。

今日は、観葉植物を買いに行きました。ムササニ半島には道路沿いに植物を売っているところがいくつかあり、私はアメリカ大使館前の植木屋さんに行っています。

植物は買ってしばらくすると枯れてしまうこともありますが、枯れた鉢をもっていくと、1つ2000シル(=200円)くらいで新しいものを鉢植えしてくれます。

普段外を歩くことが少ないせいか、いろいろな種類の植物の間を歩くと、気持ちがいいです。今日は、道路と植木屋の間の細い水の流れの中に、おたまじゃくしをたくさん見つけました。冬が終わって、春が来ているということでしょうか。

Wednesday, August 23, 2006

ムソマ訪問⑥

ムソマ滞在を終えて、ムワンザまでバスで戻りました。長距離バスにも多少慣れてきたのか、隣の席の人にスワヒリ語で話しかける余裕もありました。ほとんど寝ていましたが、途中で乗客の誰かが「テンボ!テンボ!」と叫んで目が覚めました。すぐに意味がわからなかったのですが、テンボはスワヒリ語で象のこと。ムソマ・ムワンザ間道路はセレンゲティ自然保護区に接しているので、象が見えたようでした。私は寝ぼけていて見られませんでしたが・・。

ムワンザからダルに戻る飛行機では、隣に座ったタンザニア人男性と話をしました。会計の仕事で、時々ムワンザに来ているとのこと。世間話がほとんどでしたが、タンザニアによく見られるという「Nyumba Ndogo(スワヒリ語で小さい家)」の話は興味深かったです。タンザニア人女性にとっては、子どもを持つことが非常に重要なので、妻子がいる男性の子どもを産み、ひとりで育てることも多いのだそうです。そういうシングルマザーの家庭のことをスワヒリ語で「Nyumba Ndogo」と言うのだとか。子どもがいることを隠さずに、ときには男性が子育ての資金援助することもあるそうです。シングルマザーは世界中にどこにでもいるので、タンザニアにいると聞いても不思議ではないですが、結婚よりも子どもが重要という価値観には少し驚きました。

ムソマ訪問については今回でとりあえず終わりますが、また他の話と絡めて書ければと思います。

Monday, August 14, 2006

ムソマ訪問⑤

ブティアマからムソマに戻り、ムソマの古着マーケットや、日用雑貨、携帯電話などのお店に寄った後、住宅地を歩いていたら、家の前で遊んでいる子どもたちから「イエロー」と何度か呼びかけられました。

白人や黒人については、日本語でも英語でも人種で表現することがありますが、アジア人(黄色人)を肌の色で表現することはあまりないのではないでしょうか。

ダルを歩いていると、「ジャパニ(日本人)」、「コニチワ」とか、「チナ(中国人)」、「ニーハオ」と声をかけられることが多々あり、それには慣れたのですが、生まれてこの方、イエローと呼ばれたことはなかったので驚きました。子どもたちの親が、家でアジア人をイエローと呼んでいるから、子どもたちも真似しているのでしょう、とKさん。自分がイエローと呼ばれたことで、初めて他人事ではなく自分のこととして、世界の人種問題について考えさせられました。

写真はニェレレ大統領の墓地にあった小屋です。

Sunday, August 13, 2006

ムソマ訪問④

ムソマから45km離れたところに、ブティアマ(Butiama)という村があります。ブティアマにはタンザニア初代大統領のジュリアス・ニェレレ氏の墓地と記念館があるということで、Kさんに連れて行っていただきました。ダラダラで山を上っていき、ブティアマに到着。簡単に来れるようなところではないこともあり、墓地・記念館ともに私たちしかお客さんはいませんでした。

ニェレレ記念館(Julius Nyerere Memorial Musium)は、大統領が亡くなる数ヶ月前の1999年7月に開館しました。 大統領の衣服、調度品や写真などが展示されています。

円形の記念館をぐるっと回った後、墓地も案内してもらいました。キリスト教の墓地で、突然ヨーロッパの小さな庭園に来たような感じがしました。 右の写真に写っている建物のなかに、たくさんの花輪に囲まれた大統領の墓石があります。

ニェレレ大統領は、ザナキ族(Zanaki tribe)の長の息子として、ブティアマの近くで生まれました。1961年英国からの独立後、社会主義政策をとり、経済面ではうまくいかなかったのですが、128の民族をまとめ、タンザニア国家の基礎を築いた「建国の父(スワヒリ語でBaba ya Taifa)」として、南アのマンデラ元大統領と並び、今も広く尊敬されています。

(⑤へ続く。)